第2章「ESCAPE」
....#55 夜明け前(1)
あたりはまだ暗かった。 セシルは独り暗い湖を見つめていた。 清きロチェスター。冷たすぎる空気に、体のあちこちがきりきりと痛む。 かすかに見渡せる街にはひとつの灯りも点いておらず、月光を反射してゆらぐ湖面が静寂を埋める。 ローザのことでこんなに自分が動揺するなんて、思ってもみなかった。 (ローザ……) 三歳でバロンに流れ着き、九歳には戦場に立っていた。 子供の身に情けがあるわけではなく、彼が生き延びる代償はいつも他人の命と、たぶん自分の心。死の恐怖はやがて血の衝動にすり替わり、自己嫌悪などいつしか慣れてしまった。 陛下さえいれば。 陛下さえいれば、誰が自分を憎もうと、恨もうと、構いはしない。 だって、陛下が自分を愛してくださるのだから。 陛下だけが自分を愛してくださるのだから。 「セシル、ちょっといいか?」 草を踏む音とともに背後から近づいてきたのは、カインだった。 |