第2章「ESCAPE」
....#53 谷底は深く暗く(2)
「……カイン」 「なんだ?」 「ファブールの都には、来ないでくれないか……」 「……どういうことだ?」 「…………」 「セシル!」 はやく飛空挺に戻らなければ、今すぐここを立ち去らなければ……セシルは焦っていた。 任務はもう終わった。あとは一刻もはやくバロンに戻るのみなのだ。ここにとどまる意味はない。カインもローザもリディアも、今の自分には無関係だ。 だが。 吐き気がする。 息が苦しい。 覚悟したはずではなかったのか? (陛下……) 選ぶまでもないはずなのに、セシルは迷っていた。 王より大切なものなど無いのに。 王より重い存在などないのに。 疑ったことすらなかったのに。 お前は永遠に、人にはなれぬ人形ぞ (……どこが……) 軽蔑にも値しないとでも言いたげな、あの菫色の瞳がセシルを追い立てる。 お前は、バロン王の (消えろ……!) 人形なのだよ (どこが悪い! 僕のすべてはあの人のものだ!) 今ここを動かなければ、戻れなくなる。 谷底は深く暗い。 「…………」 セシルがカインから目をそらそうとした時、カインの腕に顔を埋めていたローザがゆっくり顔を上げ、赤い目をセシルに向けた。 「…………」 枯れた声は音にならないが、乾いた唇はセシルの名を呼んだ。 腫れた目を恐怖と疑念でいっぱいにした幼なじみ。 「…………ローザ……」 底の見えぬ闇の中、落ちてゆく自分を感じる。 この迷いの代償は彼の大切なもののすべて、あるいは心そのものかもしれない。 しんと冷えた空気が傷ついた城を包み、染め抜かれたような満月が風の形の影を作る。 夜明けまでは、まだ少し時間がある。 |