第1章ミスト編

....#2 高原の街



女は薄暗い部屋で、小さな祭壇に跪いて祈っていた。

古いその祭壇はこの国によくある宗教のものではなく、 何か不思議な文字が刻まれた石版のようなものが中央に据えられた簡単なもので、 しかし相当昔からそこにあるのではないかと思われる。

無心に祈る女は、濡れた鴉の羽のような艶やかな黒髪を額で分けた、美しい女である。
やがて閉じられていた瞼をあげると、その瞳もまた夜空のような漆黒。

女の名はステラ。ミスティアという、この街では最も古い家の血を継ぐ人間である。

ステラは暫く身じろぎもせずに祭壇に掲げられた石版を見つめていたが、やがて立ち上がって家を出た。


ミスト自治区。
ギア・ナ高地の奥に位置する、山々に抱かれたように町並みが続く美しい街である。

バロンにはこのように自治が認められている地域が数カ所あった。
ここはそれらの自治区のなかでも最も古く、かつて、王達によって何度もその自由を踏みにじられた歴史を持つ。
そのためミストの人々には確固とした自治・自立の精神が宿っていた。

ステラは、すれ違う多くの住民とにこやかに挨拶を交わしつつ、昼までには戻ると言って遊びに出た娘を捜していた。


「ステラさん、こんにちわ。リディアちゃんですか?」


ステラがきょろきょろしているのを察したのか、一人の男が話しかけてきた。


「ええ、そろそろ帰ってきても良い頃なんですけど……またどうせ森で寝ているんじゃないかしら」


ステラが少し困った顔をして笑う。


「ははは、リディアちゃんは居ないとなると決まってお昼寝ですからねぇ。さっき会ったときはやっぱり森に行くって言ってましたよ」


「ありがとう。呼びに行って来ますわ」


昼食の時間を守らずに、近くの森で遊んでばかりいるステラの一人娘リディアは、今年で六歳になる。元気なのも時には困りものだと苦笑して、ステラは街の外の方へと歩き出した。


平和な街の空に突然巨大な訪問者が姿を現したのは、丁度そんな時のことであった。


「飛空艇だ!」


誰かが叫ぶと、外にいた者は一斉に空を仰いだ。

そもそも、この辺りの空に遠く飛空艇が見えることは珍しくない。
ただ、その一隻の飛空艇は、はっきりとこの街を目指しているようだった。

赤い翼と異名を取る特徴的な翼のエンブレムが、ここからでもはっきりと見える。
街の音に紛れると無音と思えるほど静かにこちらに近づいてくる姿は、不気味ですらある。

バロンの赤い翼、それは先の戦争を勝利に導いた、最強の軍用飛空艇。


「こっちにくるぞ!」


「飛空艇……赤い翼!」


「空軍だ!」


「何があったんだ!?」


近い、と感じてからその姿が視界を覆うほど間近に迫るまで、そう時間はかからなかった。

飛空艇が着陸の姿勢を取り始めた頃には、街の者はすでにパニックを起こしはじめていた。
皆何が起こっているのか解らないせいで、余計恐怖を感じているようだ。

喧噪の中でステラは必死に娘を捜していた。
慌てている街の者にはひとまず教会か長老の家に集まるように大声で促す。
飛空艇はどうやら街の中央広場に着陸したようだった。


「リディア!」


「お母さん!」


やっとの思いで見つけたときには、リディアは街の入り口に立ちつくしていた。
大人達の様子をみて戸惑っているようである。
ステラは我が子の顔が見えたことにほっと胸をなで下ろすと、べそかき顔の娘の元に駆け寄った。



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