第2章「ESCAPE」
....#62 湖岸のふたり
セシルはひとり朝を迎えていた。遠方に見える彼の空軍は、戻らぬ主を待ち続けるかのように静止状態を保っている。 「…………隊長、お怪我はありませんか?」 小型艇から降り立った副官は、思いつめた顔でおずおずと歩み寄る。 セシルは、まるで彼がやって来たことに気付いていないような顔をして、朝日にきらめく水面を遠く眺めていた。 エイリはセシルの横に立てず、日差しを受けて立つセシルの、自分より少しだけ背の高い細い影を、眩しいような息苦しいような表情で見ていた。 「ああ、この通り。大丈夫だよ」 軽く手を広げてみせる、見慣れた仕草。だがセシルの赤い軍服は、血の染みによってさらに黒々と染められている。おびただしい死を浴びた証拠。 「いつも以上に心配させられたんですよ、全く……」 「言ってるでしょ、エイリが心配性なだけだってば」 「よくそんなことが言えますね」 「…………」 ふと、言葉が途切れる。昨夜の出来事が嘘のような晴れの朝。珍しくもない平凡な朝だが、今日は特別に思えた。エイリは思い詰めた顔で、そっと懐に手を伸ばす。 「……エイリ?」 「隊長……行っては駄目です」 エイリは両手で拳銃を構えて、まっすぐセシルに突きつけていた。その気配に振り返ったセシルは驚いたような目をしたが、ふっと目を細めるとゆっくり湖の方へ目をもどす。 「…………僕、本気ですよ」 「そう……」 「自分が何をなさろうとしているのか、分かっていますか? セシル・ハーヴィ」 きっぱり言い放たれたエイリの言葉に、セシルは改めて彼の方に向き直った。 「……わかっているつもりだよ」 「嘘です、何を恐れているんです」 「僕は何も……恐れてなどいないさ」 「帰りましょうバロンへ、それで終わりだ……いつも言っていたじゃありませんか」 冷たく湿った空気に、吐く息が白い。 「エイリ」 「……はい」 「……艦を頼む」 「…………」 セシルはゆっくりと振り向いて、すっと手を差し出す。手にしているのは、水のクリスタル。太陽の強い光の下ではまるで硝子の玩具のように見えるそれは、祭壇で見るよりずっと小さく、儚くみえる。この湖の水を凍らせた欠片のようで、今にも溶けて無くなってしまいそうにも思えた。 「……撃ちますよ」 「…………やってみれば?」 エイリの悲しそうな目を見て微笑んでみせる。だけど、きっと彼はこの嘘も見抜いてしまうのだろう。 「…………」 「…………」 エイリは苦しそうに息を吐いて目を伏せる。引き金に指をかけたままの腕が、震えながら下ろされる。 「……本当に……本当に、戻られないのですか?」 「ごめん……」 小さく呟く。大丈夫、まだ笑える。 エイリは諦めたように肩を落とし、瞼を閉じる。 「…………どうか、お気を付けて」 この優しい副官と自分の部隊を大切に思っている。それは嘘じゃない。 本当はすぐにでもバロンへ戻って、陛下に、よくやったと、お前は自慢の息子だと声をかけて欲しい。これも本心。 だけど。 「ありがとう……エイリ」 ベルナルドに言われた言葉が耳に甦る。 ローザの叫びが自分を突き落とす。 心の中に生まれた小さな穴を埋めるために、自分は確かめたい。 この気持ちはなんなのだろう。 彼の目には今にも壊れてしまいそうな微笑みのセシルを前に、エイリは深く深呼吸して、目を上げる。 「でも……覚えておいてください。僕、あなた以外の下には付きませんから……セシル」 |