第1章ミスト編

....#15 ステラ



全て捨てて、リディアだけを連れて逃げなかったのはなぜだろう。
激しい消耗によって薄れゆく意識の中、ステラはぼんやりと考えた。

この土地と血に縛られて生きてきた。
疑問も不満も無かったが、敗北の予感が確信に変わってゆくにつれ、ふと思い出した。


『そなたらの血が途絶えるのは、定めなのかもしれぬ……そうは思わぬか、ジラ』


「思いません。子を得て血をつなぐのは私の役目、祖先を欺くことはできませんもの」


『我らの力はもう人の子には要らぬもの、今そなたが生け贄になることもあるまいに』


それは霧の記憶。

やっぱり、逃げればよかったとは思わなかった。
これでいい。自分はこれでいいのだ。


「おかあさん……」


ステラは辛そうに息を付いた。

霞む視界にもう会えぬかと思ったわが子の大きな漆黒の目が見える。
リディアは不安げに彼女を覗き込んでいた。

また、自分と同じ最後の一人になるリディア。
この子はどう生きるのだろう。


「ごめん……ね……」


そう、生きなければならない。


「ミストを……逃げなさい」


「……え?ミストを……にげる?」


「そうよ……逃げなさい」


「どうして?おかあさんは?」


逃げて、その先に何があるのかはわからない。
この小瓶を託す私はもしかすると残酷な母親であるのかも。
だけど、リディアを産んだことを悔いていないのと同じように、今は迷わない。


「……ごめんねリディア……私はゆけないわ……」


生きて、今よりも先に。
いつか自分の選択をリディアが憎む時が来るのなら、それはそれで構わない。
その時はあなたがミスティアを終わらせればいい。

やっぱり、酷い母だ。


「リディア…………私のかわいい子……」


ああ、リディア。
愛してる、嘘じゃない、でも……

いつか、自分で何もかもを決めて歩いていける日が来るまで、力を託そう。
ミストドラゴンもきっとわかってくれるはず。

目を閉じても、もう瞼の裏の暗闇は見えない。
責任も義務も不安も後悔も悲しみも、柔らかい雪が溶けるように優しい諦めに変化して、終わりは実に心地よかった。



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