幕間「雨の休日」

....#44


自室はあまりに静かなので、何気なくついたため息が妙に耳に残る。
部屋の空気は、石造りの小塔の壁から、外の湿気がしみこんできているように、冷たく重かった。


その日も起き出した頃にはすでに朝といえる時間ではなく、無為に過ごしているうちに午後をまわろうとしていた。


(……ローザ……)


セシルはミストでの出来事を思い起こしていた。


どう考えても、あの場で召喚士の子供を救ったのは失敗である。
バロンであの子供の命を救うのは難しい。
陛下の命で行われた召喚士狩りなら、自分はそれに従うまでだ。


わかっていた。
なのに自分はなぜ、あの時ローザを止められなかったのだろう。


彼女の素直な同情心や、子供っぽくてまっすぐな正義感に流されたわけでは無論ない。
たぶん……ただ、自分が子供を見殺しにする所をローザに見せたくなかっただけなのだ。


子供を助けたかったわけではない。


あの子供にしても、あの場で助かったことは必ずしも幸運とはいえなかったのかもしれない。


雨の音が耳に痛い。
セシルは、休暇を持てあましているにも関わらず今まで訪れようとしなかったファレル家……ローザの家に、今日こそ行かなければと重い腰を上げた。


自分が蒔いたも同然の火種、取り返しのつかないことになる前に、自分が何とかしなくてはならないと思っていた。
消えた召喚士の子供の行き先は、ジェネラルがすでに勘づいているだろう。この件が自分の管轄外であるのがもどかしかった。


なんとなく堂々と外に出るのが憚られ、目立つ髪を隠すように黒いフードを目深に被る。
そして、セシルは気の乗らないまま蝙蝠傘を手にとぼとぼと歩き出した。


車を使えばあっという間の彼女の家への道だが、歩くと一時間近くもかかる。急ぐ理由もないからと自分に言い訳をしながら、影のように黒ずくめのセシルは歩いて城を出た。


春とはいえ、雨の続く石の街は、空の灰色とあいまって重く沈んだ色合いを見せる。すれ違う人もさすがに彼を彼だとはわからないようで、心地よい無関心の中をセシルは歩いていった。


山を背にしたバロンの街は、郊外へ向かって上り坂になっている。丁寧に手入れされた街路樹が美しい。懐かしい、ローザの家へと続く道だった。


ローザの家に行って、あの子供は自分が預かろうと思っていた。
ファレル家に居るよりは、まだ庇ってやることもできるだろう。
身分を隠させて、自分が世話になった孤児院に預けても良いし、ほとぼりが冷めた頃にどこか国外に逃がしても良い。
どちらにしろ、あの家に居てはローザ達にまで危険が及んでしまう。


やがて雨の向こうに白壁のファレル家が姿を現す。
子供の頃の思い出が蘇り、知らず口元が緩んだセシルだったが、次の瞬間、はっと表情を固くして足を止めてしまった。


家の前には、カインのものらしい車が止まっていた。


「…………」


彼はきっと何もかも聞いているに違いない。
……いまさら自分の立ち入る隙は無いように思われた。


ちくりと感じる疎外感は、会わなかった長い時間が作った溝なのだろうか。


随分長いことその場に佇んでファレル家を見つめていたセシルだったが、やがて、呼び鈴に手をかけられぬまま、明かりのついた家に背を向け、立ち去った。



昼下がりの街は、雨のせいかいつもより人影がまばらで、寂しいように思える。
坂道を降りたセシルは、広々と見渡せる大通りの方を見やってぼんやりと立ちつくしていた。


銀杏並木の続く、新市街大通り。
あの通りを、かつて埋め尽くした紙吹雪がよぎる。


長い長い、暗いトンネルを走り続けるような戦いの後の戦勝パレード。
割れるような人々の声と拍手。軍楽隊の雄壮なマーチが遠く響き、車上の自分は醒めたまま微笑んで手を振っていた。


奇跡のような戦功を残した、若い英雄。
戦争をしてきた自分に、まるで物語のヒーローを見るような目、平和な国だ。
馬鹿馬鹿しい。わかっている。


別にバロンの英雄などどうでもいい。騒ぎたいなら騒げば良い、それだけのこと。


肝要なのは、父たる王が望む通り、自分が働けるかどうかのみ。
それが、どんな時も自分を守り育ててくれた王に、ただひとつ自分ができることなのだから。


身寄りが無いというのは、家族が無いというのは、世界に誰一人味方がいないのと同じこと。だからこそ彼は王に全てを捧げたのだ。


「隊長」


突然声をかけられて、はっとして振り返る。
そこに居たのは制服を着ていないエイリだった。傍らには、何度かちらっと会ったことのある婚約者がいる。


自分が全くぼんやりしていたことにやっと気づき、慌てて笑顔を作る。


「……偶然。珍しいね、フローレンスさんもお久しぶり」


「私のこと、覚えてくださっているなんて光栄です、セシル様」


商人である親が決めたものらしいエイリの婚約者は、いかにも女性らしい物腰で軽く会釈する。


「どうしたんですか、こんな町中で」


「いや、別に……」


「……隊長?」


「せっかくの休みだし、雨も好きだし、引きこもっているのもつまらないと思ってね」


「…………何か、ありましたか?」


自分では嘘は上手い方だと思っているが、なぜかこの副官にだけはたいてい見透かされてしまう。エイリは微かに頬を強張らせ、静かに彼を見ている。


「……別に、何もなかったって言ったでしょ?」


だが、こうやってまっすぐ否定されたら、エイリが二の句を告げなくなることをセシルは知ってた。


「でも……」


「休みの日までそんな顔しないの。フローレンスさんに愛想をつかされても知らないよ?」


「…………」


「ほら、邪魔しても悪いからもう行きなよ」


「……わかりました。じゃあ、フロゥ、行こうか」


「ええ」


エイリは少し恐い顔でセシルを見たが、何も言わず通りの向こうへ行ってしまった。
セシルはそれを見送ってから、再び目を大通りへ向けて、小さく息をついた。



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